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明るい社会づくり運動の庭野日敬師の真意とは [インタネット講座「拓塾」]

提唱者(庭野日敬師)の位置づけ

現在の、明るい社会づくり運動のあり方について
私が聞いている所では、
提唱者(庭野日敬師)の真意や願いを表面に出さない傾向があるようです。
これは、立正佼成会さんの本部の意向なのか、
それ以外のどなたかの意向なのか分かりませんが、そのような事があるようです。
それで本当によいのでしょうか。

それらの事を、庭野日敬師の著作物やお話になっている事の中で、
「どのようにすべきなのかを」、
再確認させていただくと、その答えは一目瞭然のようです。

但し、世の人々の中には様々な方々がいますので、
自身のエゴとか色メガネを通して物事をとらえがちですので、
それらの方々には、なかなか本来の姿がご理解いただけない事も、
残念ながら事実ではないでしょうか。

私なりに考える事の中に、
現在の立正佼成会さんの中には、
庭野日敬師のお考えや意向をご承知の方が多いと思っています。
それらの方々は、そのような現在の状況をどのように考えているのかが、
私は不思議でなりません。

この明るい社会づくり運動が全国各地で立ち上がる当時に、
以下の事が話題になった経緯がありますが、皆さんはご存じでしょうか。
もし、ご存じないようであれば是非とも心に置いていただきたい事であります。


IMG_20180326_090202.jpg


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
運動は自然発生ではおこらない。

 中央連絡会議、第二回目の会議で
「本運動の提唱者は、立正佼成会会長、庭野日敬氏とする」ということが承認された。
 今更、わざわざという考える方もあるが、これは大切な点だと思う。
大衆運動だから自然発生的に盛りあがったということではない。
誰かがきっかけを創ったり、与えることにより、火が付けられ、起きてくるものである。
きっかけが不明確のまま、市民運動で誰彼、関係なく自発的、自主的に参加していたら、
自然と大きくなった。だから特別、提唱者とか提案者などいない、という事はあり得ない。
全ての運動が自然発生的に、発展拡大していくものならば、世の中はもっと住みよい、
平和な社会はできていることであったろう。
よいことは自分の手柄とし、失敗、悪いことは他人事とする風潮なる故、
運動のおこり、きっかけを明確にする必要もある

一教団の会長でなく一宗教者の責務として提唱

 もう一つ、
「本運動の提唱者は立正佼成会会長、庭野日敬氏とする」というところから
誤解が生じていることがある。
一般的通念は、庭野日敬氏イコール立正佼成会と写っているのだから、
立正佼成会の社会運動、
もしくは、立正佼成会の活動の一環が明社運動ということに写る。
中央連絡会議の当初の頃、いつも話題になっていたのが、
「明社運動は立正佼成会の布教活動の一環なのか」ということである。
前にも書いておいたが、あまり毎度のことなので、
中央連絡会議世話人と提唱者である庭野日敬氏との懇談会をとりもったことがある。
                         (昭和五一年一月)
この時、庭野氏は二時間に亘る話の中で印象的なことを語った。
庭野氏は、「現在の世の中を暗くしている原因は、
エゴイズムである。エゴは対立を生む。
宗教々団も、自分の宗教こそが唯一絶対なもの、という姿勢は教団エゴであり、
宗教対立を生む。
これからの教団は宗教協力、協調を求めていくべきである。
私が明るい社会づくり運動を提唱したのも、
自分の教団を大きくするという目的でしたものでなく、
現代の日本の社会は精神的荒廃、人間性の欠如は進んでいる。
このような社会状況を、宗教がただ自教団のことだけを考えている時ではない。
人間の精神、心を説く宗教者、宗教々団がまず、
この社会的課題に教団のワクを超えて一致協力して、
この事態に当っていこうということでまず宗教協力という目的で進めてきたが、
だんだん一般の協力者が現れてきた。
私自身、一教団の会長というより、一宗教の責務ということで、この運動を提唱した。
利己主義の強い社会の中で、
人に奉仕する心を育てる。善意の心を呼びおこす運動として本運動を考えている。
従って、提唱はしたが、みんなで力を出し合って進めることが基本。
もし私が、運動理念とか運動の方策はこうあるべき、
などと細かいところまで口ばしを入れたら、
この運動を鋳型にはめこんでしまうことになり、
市民参加の運動となっていかないだろう。
具体的な運動理念とか方策は、
地域のリーダーの方々が英智を集めて進めてほしい。
佼成会は縁の下の力もちという立場で協力する」という意味のことを語った。

提唱者自身が、このように話してあることは大事な点で、
自分は指導者として明社運動に関わるものではない、
ということを自己表明したものと受けとれる。
明るい社会づくり運動の提唱者であると同時に、
理念的指導者だと写ることを、庭野氏自身が大変気を使っていることがわかる。


提唱者のの真意を正直に受け入れよう

時々、大会などで「来賓あいさつ」で、誤解を生じるような事があるが、
これは庭野氏自身、迷惑なことだろう。
提唱者が指導者ということであれば、この運動を国民運動とか、
地域住民運動として根づかせていけないだろうと、本人が忠告している位なのである。
だから私は、あえて庭野日敬氏、本人が日頃言ったり、書物に書いていることを、
正直に理解して、行動すれば良いと思っている。
気をつかいすぎて、かえって提唱の真意を曲解することにならないようにしたい。
全国の代表者会議でも承認され、
庭野日敬氏自身も、
「指導者でない、提唱者である」ということを言っているのであるから、
その通りに私共は受けとり行動してゆけば良いのである。
確かに、「庭野日敬氏は提唱者であると同時に指導者である」という
立場に位置づけて進める運動であってもおかしくはない。
それはそれで、今の形態の運動より、より発展していたかもしれない。
しかし現実には、その方針はスタートからとっていないのである。
提唱者は、指導者でない規則ですすめてきており、一三年間経っているのである。
本人の了解をとって庭野日敬氏を理念上においての指導者であると位置づければ、
それも可能だったかもしれない。提唱者の位置づけも運動の分岐点となった。

但し、庭野日敬氏は、立正佼成会会員に対しては、明社運動に対するかかわり方、
仏教的観点から、運動主旨、理念はきちんと指導している。


「明るい社会づくり運動 行動と理念」 日本を支える大きな蜒りに より 
               初版 昭和61年6月1日 (p102~106)
               著者 佐 藤 秀 裕

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いかがだったでしょうか。

あなたは、今後どのように受け止めてどのように行動しますか。

今、その事が問われているように思います。


私の今年のキャッチフレーズも、「前に、さらに前に前に・・・・・」

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庭野日敬氏の目指した明るい社会づくり運動のホームページはこちらです。
                      http://www.meisha.me/
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