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庭野日敬師は言っている、明るい社会をつくる為には! [庭野日敬師の言葉]

明るい社会をつくる為には!


庭野日敬師は「開祖隋感」の中で次のように言っています。


kis0107-049.-12jpg.jpg


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

世の中の争いのもとは、

誤解、恐怖、嫉妬の三つが原因だといわれます。

そこから怨念が生まれてきて、

それが原因で、さまざまな争いが起こります。


国と国の紛争も、

民族や人種間のいざこざも、そうです。


また、身近な職場や家庭でのトラブルも一緒です。  



私たちの心は、

ときには仏さまのような清らかな心になるかと思うと、

また、ムクムクと煩悩の心が起こってきてしまいます。


京都の清水寺貫主(かんす)の大西良慶師は、

「欲も中に入れ、愚痴も中に入れ、善も中に入れて、

ほどよう和え物にするのが和なん」と言われていました。


平和は、

争いを避けて静かにそっとしていれば

自然にやってくるというものではありません。


さまざまな矛盾や対立を含みながらも、

そこにバランスを保たせていく、

そのたゆみない努力によって

初めて平和が維持されていくのです。  


それは、回り続ける独楽に似ているともいえましょう。

その回転する力が衰えたら、

独楽は倒れてしまいます。

回り続けること、それが精進です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~


庭野日敬師がお話しているように、

明るい社会づくり運動を推進しようとする時に、

争いを避けて静かにそっとしていれば

自然にやってくるというものではないと思います。


さまざま考え方や、

色々な矛盾や対立を含みながらも、

そこにバランスを保たせていく。

そのたゆみない努力によって、

初めて明るい社会づくり運動の

真骨頂が出てくるのだと思います。



お互い様に、

様々なご苦労があると思いますが

精進・努力して行きたいと思います。

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庭野日敬師は明るい社会づくり運動において何を目指したのか。 [庭野日敬師の言葉]

明るい社会づくり運動において、

庭野日敬師の発言されたお言葉を、

再度拝読させていただいています。



今、私達が考えている事や、

これからの活動に誤りはないのか。

また、庭野日敬師の思いや願いにかなっているのか、否か。


再点検です。


先日、機関誌「佼成」(昭和53年11月号)に

掲載されている内容を拝読させていただき、

とても奥深い事を述べていると感じましたので、

是非、庭野日敬師の思いや願いを

感じ取っていただきたいと願い

以下にご紹介させていただきます。


IMG_20180425_115717.jpg


~~~~~~~~~~~~~~~~~

 最近、いい言葉を学びました。

アメリカへ出かけた折、

ホテルで読んだ山田無文老師のご本に、

臨済の教えが出ておりました。


「無位の真人」いう言葉ですが、

なるほど昧わいのある、いい言葉だと思いました。

だれもが自分は凡夫なんだ、

と決めてかかっている世の中ですが、

それを自分には何の位もないが、

われこそ真の人間なんだという自信に変えていったら、

それだけでも世の中は明るくなるはずです。

また、それを説くことによって、集まってきた人たちに

参加を呼びかけていく場所をつくることができれば、

第一段階の成功といっていいでしょう。


むろん、この運動を

立正佼成会のためにしようとする気持ちはありません。

第一、宗教協力といった言葉一つにしても、

ただ教団を大きくしたいというだけのことなら、無駄なことです。


協力し合うからには、他の宗派の人たちに向かって、

「あなたのところより、

うちの教団のほうがいいからいらっしゃい」とは

言えるわけがありません。



明るい社会づくり運動も同じです。

ところで、「国民皆信仰」は、

新宗達がめざす四つの柱のうちの一つですが、

この目標を果たすためには、

なんらかの形で、

これが宗教者の生き方だという行ないも見ていただきたいし、

話も開いていただきたい、

と私はかねがね考えていました。


それに沿って提唱してきたのが、明社運動です。

また、そうしてお互いが相手を尊重し会って、

仏性を拝みながら協力していけば、

この世の中はたちまち極楽になると確信しています。(中略)


この世を極楽にするもしないも、

心の置きどころ一つですから、

集まってくる人びとが真の人間になれるか、

なれないかによって、それが決まるのです。  

    
機関誌「佼成」(昭和53年11月号)

~~~~~~~~~~~~

「私自身を含めて、あなたはいかがですか。」

お互い様に、

様々なご苦労があると思いますが

精進・努力して行きたいと思います。


私の今年もキャッチフレーズは、「前に、さらに前に前に・・・・・」


☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆
庭野日敬氏の目指した明るい社会づくり運動のホームページはこちらです。
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明るい社会づくり運動で庭野日敬氏が目指した事 [庭野日敬師の言葉]

私たちは日々慌ただしく過ごしています。

そんな繰り返しの中で、

考える事は、

つい目先の事になり、

その目先の事にとらわれていると大切な事から、

離れて行ってしまいやすくなります。


そんな時、

庭野日敬氏の言葉は私の心を引き寄せてくれます。


IMG_20180326_090202.jpg



庭野日敬氏が宗教活動として目指している方向と

明るい社会づくり運動で目指している方向が示されています。


:::::::::::::::::::::::::::::::::



-人間の真の覚醒―


政治も宗教も、

つまるところは明るく住みよい社会の建設、

そして人類の平和をめざすためのもので、

その点においては変わるところはありません。

しかし、

政治は、きのう、きょう、あすといった比較的さし迫った日限の中で、

どちらかといえば力関係を中心にして動くものであるのに対して、

宗教は、過去、現在、未来という長い時間の中で、

個人の心の平和とともに理想の社会、平和な世界をめざします。

政治は社会の不正を正すことで社会浄化をめざし、

宗教は人びとの仏性(ぶっしょう)を磨きだすことで、

平和な世界を築くことをめざすものと言ってもいいかもしれません。

お釈迦さまが説かれた慈悲の教えを自分のものとして、

それを、

さらに多くの人びとに伝えていきたいという願いが

菩薩行なのですが、

「三千世界を知るも、なお自己を知らず」と言われるように、

人は、まわりの欠陥はよく見えても、

自分のこととなると何も見えていないものです。

政治も宗教も、

まず自らを正して、

それぞれの道で

人間を真に覚醒させていくことを忘れてはなりません。


1967年(昭和42年)庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より


:::::::::::::::::::::::::::::::::::::


いかがでしょうか。

あなたのこころには、

どのように響きましたか。



庭野日敬師のお考えや願い・思いが理解できるでしょうか!


あなたのお考えを、是非お聞かせ下さい。


あなたは、このままで本当に良いとお考えでしょうか。


あなたのお考えを、是非お聞かせ下さい。


☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆
庭野日敬氏の目指した明るい社会づくり運動のホームページ
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庭野日敬師の提唱した明るい社会づくり運動を進める上でとても大切な事 [庭野日敬師の言葉]

庭野日敬師は、

開祖隋感で私達に、

明るい社会づくり運動を進める上で、

とても大切な事として以下の事をおしゃっています。

river_00039-13.jpg

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

精神的な偏食


『法華経』の「方便品(ほうべんぽん)」には、

「真実の教えはただ一つであって、

二つも三つもあるわけではない。

ただ仏の智慧に到達するまでの手段として、

相手に応じていろいろな説き方の違いがあるが、

その説き方の違いも究極の真実に導くためなのである」と

説かれています。


この世にはさまざまな宗教がありますが、

それぞれの違いは、

その時代、その社会を生きる人たちを

究極の真実の道に導くためのものだといえましょう。

それぞれの宗教が互いに違いを言い立てて対立し、

協力を拒むといったことがいかに無意味であるか、

この仏さまのお言葉をかみしめると、よく分かってきます。



信仰とは、

帰依する対象を信じきってそれを貫き通すことです。



また、その心構えでなくては真の信仰とはいえません。



しかし、そこで一歩誤ると、

自分の教えの絶対性を主張して他を認めようとしない

排他独善の信仰に陥ってしまいます。


それは、


言ってみれば精神的な偏食のためにやせ細り、


視野の狭い人間になってしまうようなものです。


くれぐれも注意しなければなりません。



1968年(昭和43年)

庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

庭野日敬師は、


ご自身の信仰体験からお話になっている事だと思いますが、


私は、


明るい社会づくり運動にも当てはまる事だと思っています。


私達も、


明るい社会づくり運動の推進者として、


本物になって行く事が、求められているように思います。




あなたのこころは、どのように感じる事が出来ましたか。





大事をなす人とは、- 庭野日敬師のお言葉 [庭野日敬師の言葉]

私は常々思う事に中に、

「どこまで馬鹿になりきれる事が出来るのか」が私自身の課題だと思っています。

それは、口先は綺麗な事を言っていても、

その内心は自身の思惑や損得ばかりを考えている方々を

たくさん見て来た事もあると思います。


様々なタイプの人達と触れ合う中で自然とそのように考えるようになりました。


また、逆に「私は自身の思惑や損得で動くのだ」と言っている方もいますが、

その人の方が正直で、嘘を言わない分いいかなとも思う時もあります。


色々なタイプや考え方がありますが、

庭野日敬師は、以下の事をおしゃっていますが、あなたはどう思いますか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私はいつも、みなさんに「ばかになれ」とおすすめするのです。

もちろん「ばか」といっても、愚か者のことではありません。

現代人は、毎日、知識のシャワーを浴びているようなもので、

頭のよい人、利口な人ばかりが多くなっているようです。


頭がよすぎると、人の言うことがばからしくて聞けなくなります。


人の言うことを素直に信じることができなくなり、

なにごとも先を見通せるつもりで、

「そんなことは、とても不可能だ」と決めつけ、

初めから手をつけようとしない、といった生き方になりがちなのです。


それにひきかえ、利口ぶらない人は、

みんなが「できない」と決めてしまうことでも、

「これが正しい道ならば」とコツコツと手がけて、

ついに大事を成し遂げてしまうのです。


これが、私の言う「ばかになる」ことです。


初めのうちは、

「あんなことをやっても、むだなのに」と冷ややかに見ていた人たちが、

うならずにいられなくなってしまうわけです。

自ら志願してばかになりきる、その心のゆとりこそが大切なのです。   


庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


あなたは、いかがですか。


私の今年のキャッチフレーズは、「前に、さらに前に前に・・・・・」


☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆
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法を盾にする人 - 庭野日敬のことば [庭野日敬師の言葉]

私は昨日、

所用があり、日比谷公園に出かけていました。

そして、

私は庭野日敬氏のこんな言葉を思い出しました。

::::::::::::::::::::::::::::::::::


法を盾にする人


キリスト教では「神の下僕(しもべ)」という言葉を使い、

仏教では「仏の子」とか「仏弟子」といいますが、

信仰者にとっていちばん大切なのは、

絶対なる真理と、

その具現(ぐげん)者である

神仏に帰依する心でしょう。

奉仕とは、

読んで字のごとく「仕え奉る」ことです。

仏さまのみ心をわが心とし、

仏さまの教えを日々の生活に実行いたします、

という誓いが、

仏さまに仕え奉る出発点です。

ところが、

神仏に仕え奉る下僕、

仏さまのお弟子であることを忘れて、

法の威(い)を借りて自らを高しとし、

自分をまわりの人に

押しつけるような態度をとる人が、

ときどきいるのです。

それでは、

自分の欲望やわがままを通す道具として

法を利用していることになってしまいます。

うっかりすると、

すぐその過ちに陥ってしまうのです。

信仰者とは、

あくまでも神仏に仕える者として、

自らを律する心を忘れない人のことです。

それを忘れると、

法を立てているつもりが、

法を盾にとって

自分を立てることになってしまいかねません。

くれぐれも戒めなくてはなりません。  

                
1968年(昭和43年)

庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より

:::::::::::::::::::::::::::::::


いかがでしょうか。

私自身も、

佼成会さんとご縁をいただき、

また、明るい社会づくり運動に携わるようになり、

様々な局面に遭遇する事がありましたが、

とても、大切な事であり、

自分自身にも戒めなくていけない事だと、

こころの常に留めておりますが、


あなたは、いかがだったでしょうか。



お互い様に、

自身の心に刻んで置きたい一言だと思います。

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仏さまの懐に抱かれる、とは [庭野日敬師の言葉]

自分の目の前に悩み苦しんでいる人いるならば、

その事を、そのままにしては行けない。(逃げてはいけない。)

自身に出来る事は、たいした事は出来ないかもしれないが ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 。

たとえ、小さな一歩かもしれないかもしれないが ・ ・ ・ ・ ・ 。

私達達自身が歩め始めないと、その道は始まらない。

明るい社会を築く為には!


庭野日敬師は、とても大切な事をおしゃっています。

あなたには、庭野日敬師のおしゃっている意図が理解出来ますか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

仏さまの懐に抱かれる

自分の目で見て、確かめられるものでなければ信じない、という人がいます。

しかし、それでは大事なものを見落としてしまいはしないでしょうか。

私たちがふだん聞いている音は、自分の耳に合ったごく一部の音にすぎず、

周波数がうんと高かったり低かったりすると、聞こえません。

自分の耳に聞こえる音が、すべてではないわけです。

それと同じで、この世界は私たちには感受できない広大な広がりをもっています。

仏さまのお姿は私たちの肉眼では見えませんが、

教えどおりに行じると、仏さまの存在がはっきりと見えてきて、

その大きな懐に抱かれている自分に気づかずにいられません。 

信仰をしている私のいちばんの幸せは、

仏さまがいつも一緒にいてくださるのを感じられることです。

その幸せを、私は最近、さらにしみじみと思わずにいられないのです。

ですから、生きているうちは仏さまのみ心のままに生きてなすべきことをなし、

ご用が済めば仏さまのもとへ帰らせていただくのだ、と私は心に決めています。

これほど安心な生き方はないと思うのです。

   
庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より


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私が大事にしている言葉 [庭野日敬師の言葉]

私は庭野日敬師のお話になる事の中で、
大切に心刻んでいるお話がたくさんありますが、
今日は、その中でも特に大切にしている物の一つご紹介します。


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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
仏さまの近くにいる人

「私の衣に触れるほど近くにいても、欲望や怒りに振り回され、放逸にふける人は、
私から遠く離れている人である」と、お釈迦さまはおっしゃられています。
そして、「たとえ私から百里も離れた所にいたとしても、欲望や怒りを離れ、放逸に陥らない人は、
私のいちばん近くにいる」と教えられるのです。

いつもお師匠さんの近くにいると、
いつでも教えを聞けるようなつもりで、つい慣れっこになってしまい、
その言葉の一つ一つの大切さに気づけなくなることがあるのですね。
反対に、お師匠さんから遠く離れていて、滅多に教えを聞くことができないからこそ、
その教えのひと言ひと言に真剣に耳を傾け、
その教えを命がけで守ろう、と精進を怠らない人もいます。
「仏の山に鬼が住む」という言葉がありますが、
慣れが、つい油断を生んでしまうのです。これが大敵です。

ご法の真理は、
自分をなげうって教えを行じてこそ、そのはたらきが見えてきます
どこにいようと、その法を見る人こそが仏さまのいちばん近くにいる人であり、
仏さまのご守護に包まれる人なのです。

庭野 日敬 著 『開祖随感』より

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

あなたは、いかがですか。


☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆彡☆
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すぐれたリダーとは、 [庭野日敬師の言葉]

五月の連休も終わり、

お休みモードから体調も次第に戻るつつある頃だと思いますが、

皆様は、いかがお過ごしでしょうか。


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私は、明るい社会づくり運動とは、

烏合の衆であっていけないと考えています。

その為には、的確なリダーが不可欠になります。

庭野日敬氏は、

人を導くリーダーのすべてが心すべきこと、

として、以下の事をお話になっています。


::::::::::::::::::::::::::::::::


先に憂い後に楽しむ


後楽園というと、みなさんは野球場を思いだされると思いますが、

元は、水戸の殿さまによって造られた庭園の名前で、

中国の「先憂後楽」という古い言葉から、

そう名づけられたと聞いています。

「先憂後楽」とは、

国を治める者は民に先立って憂い、

民に後れて楽しまねばならぬ、という意味です。

民に後れて楽しむとは、

民が喜ぶのを見て自分の喜びとすることで、

為政者にとって大切な心構えです。

逆に言うと、

民に先んじて自分だけが楽しむような為政者であっては

失格ということになります。

為政者、政治家にかぎらず、

先憂後楽は、

人を導くリーダーのすべてが心すべきことでありましょう。

あの人、この人のことを、

自分のことより先に心配してあげる。

なんとしても幸せになってもらわなくてはならないと、

その道を教えてあげ、

その人が幸せになった姿を見て

「本当によかった」と心から喜ぶ。

そういう人になりたいものです。

それこそ、

仏さまのお慈悲の眼を持った人でありましょう。

1968年(昭和43年)

庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より

::::::::::::::::::::::::::::::::::::

IMG_20170507_123308-1.jpg


いかがでしょうか。

私自身も、

佼成会さんとご縁をいただき、

また、明るい社会づくり運動に携わるようになり、

様々な局面に遭遇する事がありましたが、

とても、大切な事であり、

自分自身にも戒めなくていけない事だと、

こころの常に留めておりますが、


あなたは、いかがだったでしょうか。


お互い様に、

自身の心に刻んで置きたい一言だと思います。



参考:烏合の衆とは
    読み方-うごうのしゅう
    意味- 烏合の衆とは、まとまりのない寄せ集めの集団のこと。

ともすると見失う事とは、 [庭野日敬師の言葉]

春のゴールデンウィークが始まりましたが、

皆様は、いかがお過ごしでしょうか。

ご実家に帰省したり、ご家族で出かけたり、

また中には、お仕事の方もいると思いますが、

皆様にとって有意義な日々になる事を願っています。


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2017-5-2 日比谷公園にて

そんな時期に、

私は昨日、

所用があり、日比谷公園に出かけていました。

そして、

私は庭野日敬氏のこんな言葉を思い出しました。

::::::::::::::::::::::::::::::::::

法を盾にする人

キリスト教では「神の下僕(しもべ)」という言葉を使い、

仏教では「仏の子」とか「仏弟子」といいますが、

信仰者にとっていちばん大切なのは、

絶対なる真理と、

その具現(ぐげん)者である

神仏に帰依する心でしょう。

奉仕とは、

読んで字のごとく「仕え奉る」ことです。

仏さまのみ心をわが心とし、

仏さまの教えを日々の生活に実行いたします、

という誓いが、

仏さまに仕え奉る出発点です。

ところが、

神仏に仕え奉る下僕、

仏さまのお弟子であることを忘れて、

法の威(い)を借りて自らを高しとし、

自分をまわりの人に

押しつけるような態度をとる人が、

ときどきいるのです。

それでは、

自分の欲望やわがままを通す道具として

法を利用していることになってしまいます。

うっかりすると、

すぐその過ちに陥ってしまうのです。

信仰者とは、

あくまでも神仏に仕える者として、

自らを律する心を忘れない人のことです。

それを忘れると、

法を立てているつもりが、

法を盾にとって

自分を立てることになってしまいかねません。

くれぐれも戒めなくてはなりません。  

                
1968年(昭和43年)

庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より

:::::::::::::::::::::::::::::::


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2017-5-2 日比谷公園にて

いかがでしょうか。

私自身も、

佼成会さんとご縁をいただき、

また、明るい社会づくり運動に携わるようになり、

様々な局面に遭遇する事がありましたが、

とても、大切な事であり、

自分自身にも戒めなくていけない事だと、

こころの常に留めておりますが、


あなたは、いかがだったでしょうか。



お互い様に、

自身の心に刻んで置きたい一言だと思います。











ご縁をかみしめる [庭野日敬師の言葉]

まもなく春の連休が来ますが来ます。

この連休の頃が
山々の若葉が芽吹き始めて来る
とても過ごしやすい季節になりますが、
皆様はいかがお過ごしでしょうか。


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私たち達は、
様々な人たちにお世話になり、
また、色々なかかわりを持ちつつ、
今日を向かえる事が出来ます。

そんな事を思いつつ、
庭野日敬氏の言葉を思い出しましたのでご紹介します。


::::::::::::::::::::::::::::::::::


- ご縁をかみしめる -


私は、恩師の新井助信先生との出会いによって

法華経に導かれて目を見開かされ、

そして妙佼先生という、

またとない修行の友に磨かれて、

今日の幸せに導いていただきました。

それにさらに

佼成会というサンガのみなさんに助けていただいて

今日を迎えさせていただいているわけです。

その私と同じように、

みなさんもまた、さまざまなご縁によって

今日があるわけで、

その縁のありがたさをもういちど振り返り、

かみしめていただきたいと思うのです。

自分をこの世に生みだしてくださった両親、

この法に遇いえたその縁をつくってくださった

導きの親御さん、

そして、どんな人も幸せに導く法をお説きくださった

教主釈尊の大恩……

考えていくと、

自分がどれほどの大恩によって生かされ、

支えられ、

導かれているか思い知らずにいられません。

ふだん、

つい忘れがちな過去をあらためて検証し直して、

自分が受けた恩をかみしめる瞑想修行がありますが、

一年の終わりを迎えて、

一日、じっくりと自分を振り返ってみたいものです。

そこから真の自他一体感がわき起こって、

さらに新たな精進の決意が湧いてくるのです。

1968年(昭和43年)

庭野 日敬 著 『開祖随感』 (佼成出版社) より


:::::::::::::::::::::::::::::::::


いかがでしょうか。

あなたにどのように響いたかが、大切になります。


















奉仕できる喜び [庭野日敬師の言葉]

私が庭野日敬氏のこころに残った言葉をご紹介します。

あなたのこころには、どのように響きますか。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

奉仕できる喜び


人はふつう、

自分が人に奉仕するのはあまり好きではなく、

人から奉仕してもらうほうがうれしいように思っています。


しかし、

それは心のほんの表面上のことで、心の深いところでは、

人はむしろ人に奉仕することを欲しているものです。

どんなことでもいい、

実際に人さまのために尽くして、

それで相手の人に喜んでもらえると、

それがよく分かるのです。


「なんで、子どものことで

こんな苦労をしなければならないんだろう」と

愚痴をこぼしていた親でも、

子どもが一人前になって巣立ってしまうと、

空虚な思いに陥ってしまいます。


世話をしてあげる人がだれもいなくなると、

「ああ楽々した」という思いよりも、

虚脱感に襲われてしまうのです。


さらに、体が不自由になって、

だれにも、なにもしてあげられず、

ただ周囲からしてもらうだけの身になってしまったら、

どんなに寂しい思いになるかしれません。


そう考えてみると、

自分が人さまに役立てることが、

どんなにうれしいことか

分かってきます。

それが人間の本当の生き甲斐なのです。



1967年(昭和42年)

庭野日敬著『開祖随感』(佼成出版社)より


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

あなたの本当の生き甲斐とは何でしょうか。

お金でしょうか。

出世でしょうか。

名誉でしょうか。

回りからの良い評価でしょうか。


これを機会に、

自分自身の本当の生き甲斐の点検が出来ると、

これからのあなたの人生がよりこころ豊かになって行きます。と、

言っているような気がしますが、いかがでしょうか。




奉仕できる喜び [庭野日敬師の言葉]

新しい年が明けました。

私の今年のお正月は、
昨年に義父が亡くなりましたので静かな年越しとなりました。
例年参加をしています、地元の元旦祭や初詣も見送っています。
只、お正月の松が取れましたら神社にはお参りに行く予定でいます。
回りの華やいだ雰囲気の中で、
静かに迎える新年も、それなりの味わい深い物があると思っています。

そんな中でも、例年欠かさずに出かけています、
箱根駅伝の復路スタートでの応援には出掛けました。
各大学のそれぞれの思いを秘めながらのスタート地点の雰囲気や、
緊張を抱えながらの選手や監督・コーチの様子は、
私にとっては、とても良い刺激になりますので今年も応援に出かけました。

ところで、
庭野日敬師はボランティア活動(奉仕活動)の事を以下のようにおしゃっています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
奉仕できる喜び

人はふつう、自分が人に奉仕するのはあまり好きではなく、
人から奉仕してもらうほうがうれしいように思っています。

しかし、それは心のほんの表面上のことで、
心の深いところでは、人はむしろ人に奉仕することを欲しているものです。

どんなことでもいい、実際に人さまのために尽くして、
それで相手の人に喜んでもらえると、それがよく分かるのです。

「なんで、子どものことでこんな苦労をしなければならないんだろう」と
愚痴をこぼしていた親でも、
子どもが一人前になって巣立ってしまうと、空虚な思いに陥ってしまいます。

世話をしてあげる人がだれもいなくなると、
「ああ楽々した」という思いよりも虚脱感に襲われてしまうのです。
さらに、体が不自由になって、だれにも、なにもしてあげられず、
ただ周囲からしてもらうだけの身になってしまったら、
どんなに寂しい思いになるかしれません。

そう考えてみると、自分が人さまに役立てることが、
どんなにうれしいことか、分かってきます。

それが人間の本当の生き甲斐なのです。

1967年(昭和42年)庭野日敬著『開祖随感』(佼成出版社)より

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

このお話を心に留めて、今年も精進・努力して行きたいと思います。

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